おはようございますー、今日もご機嫌、じゅんこですー。いつも読んでくださってありがとうございます😀今日はタイトルがご機嫌じゃなさそうなので、もしイヤだな、って方はブラウザバックしていただいても大丈夫です。が、私は至ってご機嫌ですし、大事なことなので書きたいと思います。
人生49年目に入って、これまでいろいろやってきましたが、ずっと「自分が自分でないような感覚」に悩まされてきました。なので、それは何故かということが知りたくて、ブログを書いたり、youtubeをやってみたりして、自分を客観視してみることにしました。
その中で一つわかったことがあって
どんなものをもらえるよりも
「よくがんばったね、えらかったね」という言葉が嬉しい
ただただ優しく触れて欲しい
子供の頃どんなに頑張っても得られなかったもののために、ひたすら自己を犠牲してまでもやってきたことに気づきました。
両親は私を強くたくましく育てたかったのでしょう。
テストで100点取ったよ!と見せれば「〇〇ちゃんは〇〇中学を受けるのだから毎回100点は当たり前。そんなことでいちいち喜ぶな」
絵画で区の賞を取れば「うちのおじいちゃんは日展に毎年出展して賞も取る絵描きなのよ、その程度で喜んでどうするのよ?」
何をやっても、自分の精一杯のがんばりをしても、喜ぶな、もっと上をと常に煽られ、良い成果を出してる人と比べられ「この人はこんなにもすごいのにあなたは努力が足りない」と言われ。
しかも、勉強、運動、習い事、ひいては容姿まで。全てにおいて。
後から知ったんだけど、小学生の頃夢遊病になってたらしく、夜中よく眠りながら鍵を開けて脱走してたんだって(笑)完全にストレス😅
もちろんね、十分恵まれてるじゃん、って思う方もいるでしょう、それも分かる。でも、小さい頃欲しかったのは、ご褒美のおもちゃでも、お菓子でもなくて、ただただ両親に優しく寄り添ってもらってるという感覚。そこが満たされず、かつ、それを伝えることが出来ず、徐々に欲しかったものが自分でも自覚できないレベルまで深い深い底の方に押し込まれていき、大人になって何か行動を起こした時ふっと現れる。
「がんばって成果を出さなければ人から受け入れられない」という呪文がとにかく必要以上に自分を犠牲にしてがんばってしまう。ある一定の成果は出せても、心はどこか空虚で、何度も体を壊しました。
ここに到達するまで、どんなに理論武装をしても、どんなにポジティブに書いてもどこか嚙み合わない感覚とか、何か自分をだましてるようなもやっとした感覚とかが押し寄せてきて、自分の奥の方にあるドロドロがどんどん出てくるようできつかった。でもそのドロドロを一生懸命取り出して、きれいに洗っていったら、ちっちゃい私が体育座りして泣いてるのですよ。
「あんなにがんばったのに、パパ、ママ、全然褒めてくれない、夜寝るときも背中とんとんして欲しいのに、寂しい😥」って。
大人の私がちゃんと見つけ出したので、「もう大丈夫!私がいる💪私がたくさん褒めてあげる😄一緒に外に出よう!」って声をかけたら
少ーしずつ肩の力が抜けてきて、それまで勇気ださないとできなかったことが自然に出来るようになってきた♨極度の人見知りがちょっと治ったり。
自分が見ていた世界が私の見方が変わって、変わりつつあります。
悲しかった記憶は忘れられないけれど、ひどい!両親のせいだ!とかは今は全くないです。両親なりに愛情表現はしていたんだとちびの私に出会って理解できた。だって今こうして、健康に、幸せに生きれてるのだから。母が私の体を思い毎日食事を作ってくれてたから丈夫な体でいられて、父が毎日がんばって働いてくれたから、バレエやダンスを習えて、その経験が私に豊かさをもたらせてくれてる。物質的な豊かさだけでなく、心の豊かさも。誰だって直接的な表現したくてもできないことだってある。私だってそうなんだし。
多分これからも、書き続けていく中で、まだ気づいてなかったことに気づくのかもしれないし、その中で心がゆらゆらと揺らぐこともあるかもしれないけれど
元気になったちびの私と一緒に成長していけばきっと大丈夫😆
今日は書き始めて51日目。51日目でここまでたどり着けたなら、なかなか良いんじゃない?ちびの私も、今ここにいる私もこれからどんな感じに変わるか、楽しみ💕
私の予想だと、ちびの私が大人の私と合体して、プリキュアみたいに変身するんじゃないかと思ってます😁😁あ、ここは「はい出たファンタジー癖」と思って軽くスルーしてください🤣🤣
この文章が誰かの心の癒しになりますように。
皆様素敵な週末を💖